大琳派展 〜継承と変奏〜

昨日、上野の東京国立博物館大琳派展 〜継承と変奏〜を観に行った。

本阿弥光悦

国宝の蒔絵、焼物など、たくさんの作品が展示されていたが、凄かったのは俵屋宗達との合作。絵も構成もすごいのだけど、あれだけの絵に筆を下ろす度胸だけでもすごい。ディレクター、斯くあるべしってところか。書が読めないのは本当に残念だ。
しかし、本阿弥光悦ってバガボンドの印象しかないんだよな。漫画の汚染力恐るべし。

俵屋宗達

今回の大琳派展で、俵屋宗達の作品を直に見ることができたのは、大げさでなく私の財産になった。人の手がこのような作品を生み出せるのか、とさえ感じる。
重要文化財にも指定されている「鶴下絵三十六歌仙和歌集」を生で見ることができた。ここに描かれている鶴の翼のシェイプは、毛筆の払いの勢いで描かれている。銀泥がすこし薄くなっていて筆跡が見えるところがあったのだけど、なんと2筆。翼一枚が二回のストロークで描かれている。嘴から頸までは一回だし、足もそれぞれ1回ずつ。この鶴が何十と巻物に描かれているのだけど、構成もさることながら、どの部分を見ても高いテンションで鶴が描かれているのは本当に驚き。絵が仕上がった後で上から書かれた光悦の書もいい。

本阿弥光悦との合作以外にもいくつかの水墨画が展示されていた。ワンストロークで決まる画法とは思えない完成度には衝撃を受けた。

昨日は宗達の風人雷神図が展示されていなかった。どうやら二週間おきに少しづつ展示内容が変わるらしい。月末にもう一度見に行くことにしよう。

尾形光琳

構成力がすばらしい。和製ウィリアム・モリスだな。絵描きだと思っていたのだけど有名な燕子花は、間近で見るとかなり拍子抜けするほど、画力を感じない。今回展示されていた下絵はしっかりしてるのだけど、俵屋宗達ほどの凄みは感じない。顕著に現れていたのが有名な「燕子花図」で、近くから見るといかにも平板なタッチで描かれた大味な植物なのだが、3間も離れると光琳の真髄が立ち上がる。まさに構図。ここに余計なものは一切ない。

燕子花に限らず、筆で描かれた線のように均一でない要素を画面全体に配置してハーモニーを作り出している作品など、今のように試行錯誤が何度も許される環境でないのによくやるな。
俵屋宗達と同じ図柄を描いている作品でも、主題の配置や色合いなどで、緊張感のある、おちついた構成にまとめあげている。
昨日は尾形光琳風神雷神図が展示されていたのだけど、残念なことに本家の俵屋宗達風神雷神図は展示されていなかった。

酒井抱一

俵屋宗達本阿弥光悦の合作で魂を抜かれてしまったのでまともに鑑賞できなかった。俵屋宗達の風人雷神図をみに行くのでその時にもう一度きちんと鑑賞しよう。
今日の印象は、時代も下ってるので当然なのだけど、技術のある人という感じ。ごめん。

まとめ、じゃないな。

琳派展で展示されている作品は大変すばらしく、魂を抜かれて立ち尽くしてしまうほどの名品にも出会えた。2004年にも琳派展が行われていたらしいけど、今後も琳派を中心とした展覧会が行われていたらぜひ観に行きたい。

この琳派展とは関係ないが、制作されてから短いものでも一世紀半が経ってしまっているため、銀泥が完全に酸化して真っ黒になっているのがたいへんもったいない。「古び」も作品の重要な要素ではあるのだろうけど、上に書かれた文字が読めなくなる位酸化してしまった銀は作品の価値を損なうこと甚だしいと個人的には思う。紙や絹、漆のようにベース素材が弱いから、という理由もあるのだろうけど、制作当時の姿に近い状態への修復はぜひとも行ってほしい。寺院修復は建立当時の姿で再生することが多くなっているようで、京都あたりでは周囲の風景からそそり立つ異界を堪能できるものが増えてきてうれしいのだけど、なぜか骨董のたぐいは制作当時の状態へ修復する例をあまり見ない。残念だ。

もしもこの展覧会に足を運ぶことがあったら、第一会場と第二会場の間にあるミュージアムショップで、現代の作家が作った本阿弥光悦尾形光琳の「写し」を見ることができる。鈍く光る銀泥と華美にならない程度の金泥の輝きが墨や漆と作るコントラストこそ、彼らが作った作品なんだ。